Background

﨑山和雄の生い立ち

創業までの生い立ちを、MOTUL様「プロによる証言」より引用させて頂きました。

MOTUL

本当はアメリカに行きたかった。
だから、一番アメリカに近かった場所にいこう。

外車一筋、うるさ方の多い、この業界にあって第一級の折り紙をつけられた「﨑山自動車サーヴィス」。外車の癖を知り尽くし「整備の神様」と呼ばれる﨑山氏のユニークなお話は、聞く人を惹きつける魅力に溢れています。

﨑山 : 16歳で赤坂にあった「ジャックス・ガレージ」というところに行って、昭和35年から46年3月いっぱいまでいたんだ。それで独立したわけ。僕は外車っていうイメージは映画から入ってるんだよ、やっぱりね。それと大井町っていう育った環境が外車が多かったんですよ、周りにね。格好いい車と格好悪い車がはっきりしてる時代だから。

当時の外車っていったらアメ車の方が比率が多いから。唯一ヨーロッパ車というと、”サンビーム・アルパイン”とか”サンビーム・タルボ”だとかね。”アルパイン”は、もっと後だから、僕が初めて入ってすぐやらされたのは”サンビーム・タルボ”って車ですけどね。クルマのクの字もわかんないのに「これやれ」なんて言われた時代ですよ(笑)

とにかく修理屋になるなら外車屋。

MOTUL : やっぱり「外車」ですか?

﨑山 : 当時はもう外車の方が圧倒的に格好いいじゃないですか。それで一番最初に、とにかく修理屋になるなら外車屋。外車で入りたいというのがあったから。それで昭和35年に、おじさんにどこかいいところないかなって。

結構いろんなところ、自転車で行ける範囲は全部見に回ったんですよ。ところが、当時の修理屋って、汚いわ、暗いわ、身体中真っ黒けになって仕事してる。すごい明るい中で汚れてるのは格好いいと思うんですよ。ところが床はどろどろ、それこそ馬小屋みたいなところでクルマ直してる格好見ると、あんなの嫌だなっていうのがあって、僕なんかの頭の中にあるアメリカ映画に出てくる修理工場だとかと、あまりにも格差があるわけ。

それでいろんなところ見て歩いて、たまたまこういうところで日系二世がやってる修理工場あるから行けって言われて行ったら、こりゃ格好いい。それこそ、アメリカ西部の片田舎の修理工場みたいなところで。「ジャック・ Y・田中」っていう人がやっててね。確かに工場は建物も木造の合掌造りのだけどね、やっぱりきれいなんですよ。要は、薄汚くないわけ。表には木の柵が2つあるわけですよね。その木の柵をどかして工場オープン。そういう工場だった。本当の西部の片田舎の修理工場みたいな。赤坂のど真ん中、これ、絶対いけるよってやつですよ。格好いいと思いましたよ。飼ってる犬はドーベルマンでね。番犬にいるわけですよ。入れないんだから、俺なんか。初めて、何月何日から工場へ来いって言うんで行ったら、もう怖くて。ドーベルマンがうろうろしてやがってさ(笑)

それで、車がそのころ最先端の新車でしょ。みんな”キャデラック”にしても”シボレー”にしても日本人は乗れないんだからさ。当時はね、新車なんて。そういうのがごろごろしてるわけ。もう「ここしかない」ってやつですよ。コンクリにしても、暇になると床掃除させられてね。とにかくきれいにしろって。作業台でも何でも古いんだけども綺麗に使い込んでる、そういう工場でしたよ。

名刺みたいな肩書が嫌いだから、
会員証のようにしたかった。

MOTUL : 﨑山さんがこの仕事を始めて、大体どれぐらいですか。

﨑山 : 始めたのは昭和46年の5月。最初は24時間出張整備をしますっていうキャッチフレーズでね。ガレージ整備って格好ね。お客さんの家に行って何でもアフターサービスをしますよ。「﨑山自動車サーヴィス」の意味は、自動車に対するサービスは全てするという意味からサービスなんですよ。モーターとかそういうのを付けると、どうも僕の中にはイメージが合わなかったわけですよ。もともと、僕の名刺は名刺と言うよりより一種の会員証なんですよ。そういうイメージで作ったものなんです。デザインしたのはうちの女房で。これを車検証に入れて、一種のこれは崎山自動車に出入りしてる証だよという意味で作りました。

本当はヒントはあるんですよ。これはパクったんだけどね、フォードの1970年ごろの話を。たまたま僕は同級生がアメリカにいるんですよ。帰ってきたときに、おもしろいもの見せてあげるよっていって。ちょうど商売やる前ぐらいかな。フォードのディーラーに行ってフォードの新車を買いますよね。そうすると、これをお使いくださいって、必ず車と一緒に1コイン付いてくるんですよ。1コインというのはエンコしたり何かトラブルが発生した時にはそのコインで電話を掛けてくださいっていう意味から。それを僕はパクったんですよ(笑)

もともと名刺みたいな肩書嫌いだから、こういう格好の名刺にしたわけ。これは崎山自動車に来てる会員証みたいなものでね。ただ、個人の名前がわからないと困るから裏に作っただけなんですよ。嫌いなんですよ、代表取締役何とかって。そういうのはとにかくやりたくなかったわけ。昔の名刺はここ24時間出張整備って書いてある。それ、本当にやってましたよ。4年間やってた。

様より引用

Company history

﨑山和雄の年表

1959年

16歳にて自動車運転免許を取得し、
港区赤坂に在った「ジャックス・ガラージ」に入社。
60年代のアメ車、フォード、シボレー、キャデラック、
オールズ、GM、ランブラー、etc.
この時代のアメ車は、ほぼ全てと言っていい程の整備を経験する。
その車のオーナー達の大半はアメリカ大使館員であった。

1967年9月

予算4万円で、初めて所有した車「パブリカ」を購入。

1967年10月

モータースポーツに憧れ、ジムカーナレースに参戦。国内Bライセンスを取得する。「TRD」の前身である、芝浦トヨタ「モータースポーツコーナー」の協力のもと
「日本一速いパブリカ」を作る事を目指す。
「とにかく、遅い車を”速く”するのが面白かった。」

1967年5月

妻と従業員1人、ダイハツ・ハイゼットに工具一式を積み、
24時間出張整備を請け負うという、
当時ではまれな(現在のJAFのような)、スタイルで独立

1971年

カートレースに参戦。
所沢サーキット ヤマハSL杯に出場。
のべ3年以上参戦していた。
デビュー戦は35台中6位であった。

1975年7月

港区三田三ノ橋に認証工場を開業。
港区は外車発祥の地であり「日本のデトロイト」と語るほど、
港区で開業する事に強いこだわりがあった。

1981年1月

某自動車メーカーの研究開発車であった
「フィアット・アバルト・1000ビアルベーロー」を手に入れる。
後に、自身で10年の歳月をかけフルレストアし完成した車。
町工場のチューナー「カルロ・アバルト」に憧れ、
そして庶民のレースカーとして活躍したというこの車には、
とても深い思入れがあった。
1000CCでツインカムエンジン。
世界で初めてリッター100馬力を超えた車。

1992年2月

メカニック「山平 家久」が入社。

1992年3月

日常の足となる「メルセデス・ベンツ190 2.5-16-EVO2」を入手。

1993年4月

富士スピードウェイ・ジムカーナコースにて
「崎山自動車サーヴィス20周年記念イベント」を開催。
そして、この日は10年かけてフル・レストアした
「フィアット・アバルト・1000ビアルベーロー」の完成記念を祝う日でもあった。

1995年2月

念願であった港区に、自社工場を設立。

そして、現在に至る。

メカニックとして、ドライバーとして、または人生の相談役として、
生涯現役を目指し、町の自動車工場の物語は続く、、

Car history

﨑山和雄の車歴

1967年から、﨑山和雄が乗ってきた車の一部を紹介します。

●パブリカ 700 ●パブリカ 800 ●トヨタスポーツ 800 ●1961年 BMCライレー1.5 ●フォード・コルチナGT ●1968年 BMW 1800 ●フェアレディ2000 ●ポルシェ 914 ●1971年 スカイライン 2000GT ●ブルーバード 510 ●ブルーバード U ●ダッジ・チャレンジャー ●三菱ジープ J3 ●FIAT X1/9 ●キャデラック・フリードウッド ●ロータース・エラン ●ワーゲンTYPE2ウエストバリア ●アルピーヌ A110 ●ケーターハム7 ●FIAT 850 Spider ●1974年 BMW 520 ●1983年 BMW 520 ●フェラーリ 328 GTS'
●メルセデス・ベンツ 2.3 16 ●メルセデス・ベンツ 2.5 16 ●ベントレーミルザンヌ ●トライアンフ GT6 ... and Many more.